インタビュー

音の息吹き→ 詳細へ

10月5日(土)東京文化会館にて開催される「音の息吹き」【第二部】の演目の一つ「幽寂の舞」を作曲された新実徳英さん、ダンサーとして出演される平山素子さんお二人に、お話をうかがいました。 平山さん・新実さん
(左:平山さん、右:新実さん)
平山 今回、「東京発・伝統WA感動」事業からご依頼いただいて、初めて新実徳英先生の曲で踊ることになりました。本格的な邦楽は初めてなんです。どういう切り口でいこうか、と考えていたところ、新実先生の作曲ノートを拝見して、それを手がかりに踊りを創っていこうと考えているところです。
――先生の作曲ノートには、「苦悩を克服し、より高く昇華された精神を表象するかのごとき幽寂かつ典雅極まりない架空の舞、のための音楽」とあります。
新実 能楽の影響を受けて書いたものですが、「架空の舞」ですから、具体的なダンサーのイメージはないんです。
平山 そこが楽しいところなんですよね。ダンスの具体的なステップをイメージして書かれた曲ではなく、もっと根源的に「舞う」ということを想像していらっしゃったんだと思うんです。今度はそれを実際の身体でどのように受けとめて、視覚的にかつ精神的に表していくか、ということにすごくチャレンジのし甲斐があって、いい機会を与えられて鍛えられています。(笑)
新実 ぼくはこれよりだいぶ前に書いた曲で、スイスの賞をもらった曲があって、それもちょっと架空の舞踏を意識してるんです。もっとも翌日の新聞評には「こんなにビートがない曲でどうやってコレオグラフィー(舞踊の振付)つくるの?」と書かれたみたいですけどね。そんなことはぼくの知ったこっちゃない(笑)。
平山 西洋的な発想ですよね。
新実 今回平山さんに踊っていただく「幽寂の舞」という作品も舞踏曲ということではなく、「架空の舞踏」というイメージで。何かそのほうが楽しいじゃないですか。聴いている人もいろいろ想像できて。そういうところから始まっているんです。
――邦楽の曲を五線譜で書いたものは初めて拝見しましたが、箏のパートはこんなに細かくなるんだ、と驚きました。
新実 現代邦楽の譜面は全部そうです。この曲はきっちり書かれた部分とフレックスになる部分と対比して書いています。かなり自由に演奏家まかせにしている部分もあるんですよ。
平山 私も邦楽の楽譜ってにょろにょろ、というイメージだったんですけど…(笑)
新実 ぼくら読めないんですよ。邦楽の譜面というのは。尺八のロツレチ(尺八を口で教える時に使う擬音)とか三味線のチントンシャン(三味線を口で教える時に使う擬音)とか、表記もいろいろだし。
平山 なんか、漢文読んでるみたいなものもありますよ。(笑)
――これだけの複雑な音楽(譜面)を指揮者なしで演奏してしまうんですね。
新実 それは邦楽の演奏者のすごいところなんです。彼ら、20人ぐらいのアンサンブルでも指揮者なしで演奏しますから。全部芯になる人にピタッと合わせる。しかもわざとらしい呼吸を一切しない。洋楽のアンサンブルだとよく「スウッ」という音をたてて呼吸を合わせますよね。それは邦楽の人たちにとっては非常に恥ずかしいことなんです。ごく自然に呼吸することで合わせていくんです。
平山 音をたてて呼吸を合わせるのは恥ずかしいこと…。メモさせていただきます。学生に教えたいフレーズですね。彼らはスーッという息の音をたててきっかけを合わせたりするんですよ。
新実 それは西洋的なやり方なんですよね。だから指揮者なんかよく鼻息をたてるじゃないですか。スウッ、ダダーン、とかね。ピアノ奏者も鼻息をたてると、ピアノと歌手が一緒に始まるとか。やりやすいんだと思うんです。でも、邦楽の演奏者にとっては、そういうのはちょっと恥ずかしい。
平山 え、でも、じゃあどうやって合わせるんですか?
新実 いや、同じことなんだけど、あからさまでない…
平山 さりげなく、やるんですか。
新実 そう、さりげなく。お箏の皆さんが一緒に出るときは、皆さんふっと自然に息をして、手を見て、体の動きを見て、ぴたーっ…と自然に一斉に出る…
平山 なるほど…
新実 それから「ノリ」といって、テンポ感みたいなものですが、このノリをみんなで共有しているということもります。例えばアチェレランド(テンポを次第に速めること)するときも、一番の人にすっと合わせていく。あるアンサンブルのためにお箏のコンチェルトを書いたことがあるんです。これは指揮者がいたんだけど、それが本番で一瞬ずれたんですよ。でも誰も指揮者についていかない!みんな芯となるソリストに合わせる。
平山 ちょっと切ない!(笑)
――平山さんは、今回初めて加賀谷香さんと共演されるそうですが。
平山さん 平山 そうです。加賀谷さんは本当に素晴らしいダンサー、振付家でよくお互いの踊りは見合っているんですが、実は、一緒に踊ることはまったくありませんでした。
いつかは一緒にやりたいと思っていましたが、何かもっと強くて大きなテーマが来たときに二人で立ち向かっていくようなチャンスがふさわしいとタイミングを狙っていました。今回、彼女に声をかけたら、彼女もやる気になってくれて、とても楽しくリハーサルをやっています。
――いい機会になったんですね。
平山 私たちは二人とも小さい作品で踊るときにもその都度テーマというのはあるのですが、先生のテキストの中にあるように、踊ることを通して自分の生命の源をみずみずしく保っていきたい、そういうコンセプトの中で踊りと向き合っているんです。
踊り終わったあとがいちばんスッキリして、リラックスしている。踊ることが自分をよりよい生命体にさせる一つのプロセスみたいになっているんですね。この音楽では、闘いながらも実はかなりリラックスして、初めて着る洋服なのに着心地がいいなあ、という感じでやらせていただいています。なんかずうずうしい言い方ですけど…(笑)
新実 いやいや。演奏でもそれは同じですよね。いい演奏は演奏し終わったあとがいちばん元気になる。音楽から元気をもらう、生命をもらう、あるいは活力をもらうということだと思うんです。
ぼくには二重の楽しみがあるんです。今回の演奏家の顔ぶれで演奏するとぼくの作品がどうなるか、ということと、この曲と平山さんたちがどう出会うか、さらに言えば、演奏家たちと平山さんたちがどう出会うか、ということもある。だって演奏家が(踊りを)見ながら弾いたり吹いたりするわけですよ。
平山 なんてぜいたくな…(笑)
新実 そうやってお互いにコミュニケーションするわけですよ。だからそういう現場にいられるっていうのはそれも楽しみだし。たとえば曲の中に尺八のソロがあるんですが、それがふっと音を止めた瞬間に、どうリアクションするのか、など。一緒に止まるのか、あるいは何かが起きるのか、これはある種の即興として、一種の遊びだと思ってもらっていいのですが。それもとても楽しみですね。
――「間」というのはとても日本的な感覚だと思うのですが。
平山 そうですね。私たちの感性を英語で訳そうとしてもフィットする言葉が見つからないんですよね。間というのは時間の問題だけじゃなくて、もっといろいろな感性が含まれている言葉だと思うから。私たちがなんとなく体に浸透させているもので、うまく説明できないんですよね。
新実 そうね。ただ「タイミング」と訳しちゃうと、ちょっと違っちゃうんだよね。合うか合わないかということだけになっちゃう。ただ、まったく東洋的だというのはいいすぎで、西洋の演奏家にもちゃんと「間」というものを持っている人は名演奏家にはいますよ。ただただ前へ進んでいけばいいわけじゃない、ということをわかっている。
平山 たとえば武術家の方が技が決まったときに、すっと体が止まる、というか「静まる」瞬間がありますよね。ぐわっと波立った後にスカッと止まってまた動き出す。止めた後それを解除するのはいつか、というのは止める前のムーヴメントで決まってくるんだと思うんです。その前にどれだけ波を立てたかで決まるんだけど、その感覚がどうしてもわからない人もいます。
舞踊には足が高く上がったり、素早い動きをコントロールできるとか、何回転も回れるのも必要だとは思うんですが、止まった動きをいつ解除するかを自分で決められる、そのことがわかるダンサーは少ないと思うんです。
新実 でも、それは身体能力が一定以上のレベルになってからのことだと思うね。
平山 多分それは何回も繰り返して、修行して毎日練習して、何回やっても同じタイムになってくる。毎回違っていたものが精査されていって、同じになる。結局カウントをとるのと同じタイミングだったりするんですよね。でも、そこまでやってカウントだな、となるのと、最初からカウントでコントロールして動き始めてください、と決めるのでは、論点が違うと思うんです。
新実 それは音楽でもフェルマータとか、ゲネラルパウゼ(音楽で、管弦曲などに用いる総休止)と同じことでね。フェルマータというのは音が鳴っているんですが、イタリア語では「停留所」という意味なんです。時間が止まっているんです。だけど、演奏家によっちゃ「じゃあここ3拍分ね」とか言ってる人がいる。それじゃ全然意味がないんだよね。
平山 そうなんですよ!
新実 一と二と…って。ところが、それは間違いなんだよ。結果的に3拍分になるのはいいんだけど、はじめから3拍数えてはだめなんです。
それから、音楽には休符というのがあって、たとえば四分休符というのは1拍、二分休符だったら2拍なんだけど、これも一種の間ですよね。1拍休んで次いくのか、というとそうではなくて、そこに微妙な呼吸が入る。呼吸の場所なんですよね。あるいは呼吸をしないで無呼吸でいくかもしれないし。
このタイトルの「音の息吹き」に話を戻せば、音楽というのは生命体だからあえて休符のことを言わなくても音には全体に呼吸があるわけだし、踊りもそうだし、生命体であるということは呼吸をしている、ということになりますよね。
――この秋、10月の新実徳英先生の個展コンサートでも「音の息」をテーマにしていらっしゃるそうですね。
新実 弦楽四重奏曲2曲を演奏するのですが、ひとつは弦楽四重奏曲第二番「Asura」で、東日本大震災の直後に書きあげたものです。いま書いているのが弦楽四重奏曲第三番の「Spiritus(スピリトゥス)」、ラテン語で「呼吸」という意味です。
ぼくの作品の副題はタイトルそのものを描くわけじゃなくて、ひとつのモットーであって、自分に言い聞かせるためにつけているんです。呼吸するということはあらゆる生命体に通じることですよね。呼吸を通して鼓動というものにつながっていくし、そこから生命体のリズムというものが出てくるし。そういうことに通じる曲を書きたい、ということなんです。今回の公演のメインタイトルは「音の息吹き」ですが、音楽もまた一つの生命体ですから、必ずそういうことにつながっていくんですよね。
新実さん
――平山さんは6月に新国立劇場で印象派の音楽で踊られましたね。あのときは10人で踊られて、今回は2人。どういうところが違うでしょうか。
平山 大人数でも二人でも一人でも、私自身は同じですね。同じでありたいと思っているということかなあ。
結局目の前にあるいろんな課題に対して真摯に真面目にできることを探していくというか。
今回の「幽寂の舞」は、邦楽器だから和風にやろう、といったことはあまり意識しないで取り組もうと思っています。
新実 ところで、ぼくは一つお聞きしたいことがあるんだけど。
平山 何でしょうか?
新実 踊るのがお二人だと、アドリブっていうことはありますか?おや、そうきたならこっちはこうだ、みたいな。
平山 ありますよ。いっぱいあります。
新実 いっぱいあるんですか。じゃあ、全部予定どおりっていうことは決してなくて、大筋があって、そのうえで彼女がこう動いたから私はこういく、という感じになるんでしょうか。
平山 そうですね。それもかなり練習してやるんですけどね。出会いがしらにやるものとはちょっと違うと思います。
新実 それはそうだよね。ぼくは、「即興」ということに誤解があると思うんだよね。
平山 私もそう思います。
新実 思いつきじゃないんです、即興は。ジャズの連中だって百通りか二百通りのモードなどのパターンを徹底的に練習しておいて、それがどこでどう出てくるか、ということなんですね。だから思いつきばったりでピアノを叩きまくる、というのは即興じゃない。踊りもそうですよね。
平山 今回は私が全体の構成と演出と振付の責任を持っているのですが、加賀谷さんはかっちりできるようになりたいという性質。そこを乗り越えたら、今度はこちらがキャッチして、彼女の動きをアレンジしたり、私のほうで何か反応したり、というやり方をとろうかな、ともくろんでいます。私がまず自分の解釈を彼女に伝えて、それを渡して、いまはハーモニーを作り上げている段階です。
この曲をループして流して聞きながら創作しているんですが、実は動きのモティーフは曲と全然関係なく創っているんですよ。楽譜を見て、音楽を最初からたどりながら動きを決めていっているわけじゃないんです。どこかで、「あ、来た!」という、偶然起きたみたいなフィット感をうまく出せないかな、と。みんな決められたことをやっているはずなのに、ジャズの演奏みたいに、その場で立ち現れた喜びみたいなものが見えてくるようにしたい。加賀谷さんとリハーサルしながら、踊りでたくさん遊んでから決める、といった感じで創っていくんです。
新実 それはいいかもしれないね。遊んでから決まっていくのか。
平山 加賀谷さんといっぱい踊りで遊んで、よかったのはどれだった?ということからそれを膨らませていく。前のリハーサルでやったことは忘れちゃってもいいんです。逆によく覚えているのはすごくよかったか、全然できなかったか、なにか理由があってひっかかるものだと思っています。「書きなぐった」結果、感触だけが残っていく。
新実 ぼくらもフレーズをメモとったりしますが、忘れるものは忘れちゃっていいんです。
平山 あと、一発で書けるときもありますよね。これしかない、という。
新実 そうですね。クリエイションということでは同じだと思いますよ。ただ出てくるものが違うだけで。
踊りのリハーサルはチラッと見ました。二人が遊んでいらっしゃるのを。(笑)
アンサンブルのメンバーも異なるので、それも楽しみなんです。曲っていうのは成長していくんですよね、放っておいても。初演のときから何十年か経っていると、演奏するときの暗黙の了解みたいなものが深まっていって、本当に楽しみです。これを見てダンサーがまたやりたいと思ってくれるといいなと思います。
平山 あとは、私たちの踊りを見て、新実先生が新しく一曲書きたいな、と思ったりしたらいいんですけど。
新実 思ったりしそうですよ。(笑)
平山 私はダンサーですから、創造の源に舞踊があってほしい、と思っているんです。舞踊からいろんなものを発信できるということを目標の一つにしているんです。
新実 ぼくらは呼吸や鼓動のもとで生きているし、生かされているし、音楽も舞踏も根源は同じなんですね。昔は歌うことと踊ることは一体化してた。いまでもそういう盆踊りにいって、歌うのやめて踊ってください、といってもできない。踊るのをやめて歌ってください、といってもできない。一緒じゃないとできないんです。踊ることと歌うことが分化してそれぞれ発展していったんだけれども、またこういう風に出会って、新しいものができる。ぼくは音楽と舞踏は根源的に結び付いているんだと思いますね。
――次への期待も内包したステージになりそうですね。
新実 平山さんのほうがずっと長生きだから、早くいろいろやりましょうよ。
平山 早くお願いします…(笑)
平山さん・新実さん

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