対談 伝統から新たな創造へ 野村萬×壇ふみ

東京発・伝統WA感動 HOMEへ
今日は、檀と萬なので、萬檀(漫談)という事でよろしくお願いします(笑)。
伝統文化、伝統的技能をどうつなげてゆくかというお話になる時、伝統は常に新しくないと伝統にはならないと言われますよね。
野村 伝統芸能を学ぶ時は、模写、つまり「ものまね」から始まる。「学ぶ」は「まねぶ」という言葉からきていますから。模写から始まって、決してそこにとどまらず、そこから抜け出して、創造的な心へいかないといけない。「伝統は古くて新しい」という事を基本に持っていなければならない。そのためにはどうしても時間がかかるんです。
伝統芸能は私どもの世代には、懐かしくてあったかい感じがするんです。私たちが小さい時は、たとえばお正月には獅子舞が来て踊っていたし、そういう記憶がいくつも積み重なっているんでしょうね。今の小さい子供たちには、そういった記憶の積み重ねができているのでしょうか。
野村 都会にはそういうものが少なくなっているけれど、地方には日本の文化の名残がまだ残っています。しかし、今は床の間や畳の部屋がなくなってしまった事がまず第一の問題ですね。
同感です。私は着物が好きなんですけど、畳の部屋がなくなると着物も難しくなりますもの。
野村 歴史をさかのぼれば、人々の日常生活が即、舞台なんですよ。
和室や畳がなくなると、素足で畳を踏んだ時の気持ちよさ、寝転がったときの解放感、い草のいいにおいという、日々の生活で体感していたものが消えてしまいます。そういう微妙な感覚がわかるというところに日本のよさ、日本人としての遺伝子、誇らしさをかんじるのに。伝統芸能にも、そのような日本人の根幹に通じるところがあるような気がします。
野村 夏は浴衣くらい着てほしいですね。最近、街で若い人の着物姿をよく見かけるんですが、嬉しいですね。
着物を着るようになると、着物の似合う場所に行きたいと思うようになるんです。伝統芸能を見にいくと、やはり着物のかたが多いですよね。歌舞伎なんか、この着物を着たいからと思って行ったりするんです。そういう軽い動機から伝統芸能に入っていってもいいんじゃないかしら。
野村 舞台は歩く姿の美も重要です。足を運ぶ事が美しく見えるように白い足袋をはいているんですよ。伝統芸能の舞台の一番の基本は、畳の生活の中で立ったり座ったりする事が、無駄なくきちんとできるという事が大前提です。
時代劇をやった時の事ですが、20代の若い共演者が3分と正座できないんですよ。子供時代に正座をした事がないんですって。そういう事は、ぜひ子供のうちに体験しておいてもらいたいですね。
野村 歌人の大岡信さんのお話ですが、大岡さんが海外に出られて、外から日本を見た時、日本の文化に大きく横たわっているものは「忍耐」だと感じる、とおっしゃっていました。舞台での楽しさや面白さは、何か厳しいものを通り抜けた後でないと、本物ではないのです。演者の修業は、忍耐なんですが、観客の皆さんも目先の面白さを求めるだけではなく、どこかで我慢していただかないと、伝統芸能は続いていかないと思います。
ああ、確かにそうですよね。1回見て分からなくても、回数を重ねると分かる。クラシック音楽でもそう。初めて聞いて“美人”だと思ってほれた音楽は、ずっと聴いていると飽きるんです。最初は美人なのか、そうでないのか分からない音楽は、何度も何度も聴くといい面が見えてくる。伝統の積み重なった芸能は、粋が集められているから、簡単には分からないと思います。
自然と対峙して能舞台を支配できる声と体をつくる
野村 現代社会は複雑、多種多様です。それだけに素朴、質素である事が、反対の振り子でとても大切なんじゃないかと思います。それらを軽蔑する風潮になってはいけないと思うのです。
日本の文化といえば、「わび、さび」が思い浮かびますけど、「わび、さび」って、自然とのつながりを求めてる気がします。芸能も必ず自然とつながっていますよね。日本人が伝統芸能を失うと、自然とのつながりも薄まってしまうような気がしますし、自然とのつながりを忘れると、伝統芸能も危うくなると思うのです。
野村 最近、薪能をいろいろな所でやっていますが、能・狂言というのは、もともとは野外でやっていたんです。それは自然との対応が大切だからなんです。潮が満ちたり引いたり、月の満ち欠けがあったりする。夕暮れになって日が落ちてきて、人々の心が萎える時には、舞台は華やかなものにしなさい、と世阿弥は書いている。屋内で重箱のすみをつつくような芸ではだめなんです。役者の修業としては、能舞台という空間を支配できる声と体を鍛えなければならない。狭い空間で勉強していては分からないんです。広がりを感じる事ができない。広がりを感じるからこそ、集中力が生まれてくるんです。うんと外に開いて、開放、すなわち「陽」が基本にならないといけない。しかし、ともすると「陰」のほうが高級に思われがちなんです。「陽」は野卑(やひ)につながりかねない、という事なんでしょう。
子供たちが参加する「キッズ伝統芸能体験」では、発声法などもアドバイスなさるのですか。
野村 狂言を教えますから含まれています。やっぱり明るく、健康な声を出してもらいたいですね。
今の子は本来の声を失っているように感じますが。
野村 昔の「聲[こえ(こわ)]」という字には、下の部分に「耳」がありましたね。今の「声」という字には「耳」がない。音はもっと耳でつかまないとだめだ、と声楽の先生も言っています。
見るほう、つまり観客にも忍耐をしてほしいとの事でしたが、その忍耐力を養うにはどうすればいいのでしょう。面白さがちょっとは分かってないと観客の忍耐も続かないと思いますけど。
野村 「門前の小僧習わぬ経をよむ」で、小さい頃から活字ではなく、大人がやっている事を耳でつかんでいく。そうしながら、まだ海のものとも山のものともつかない子供が舞台に出る。それを観客が見守り、育ててくださる心がないと伝統は受け継がれていかないと思います。 若い時は教える時に、難しい、厳しい事ばかり言っていたんです。弟子はそれに辟易(へきえき)していた。八十面(はちじゅうづら)さげるようになって、芸能は面白い、楽しいよ、という事も説いていかないといけないなと思うようになりました。しかし、ただ面白い、楽しいだけでも困る。厳しい、難しいという事を通り抜けて、その先に面白さ、楽しさがあるんです。観客の皆さんも、何かを通り抜けて、発見があるといいと思う。家庭でも、孫を教えるのは、お爺さんの役目。お爺さんは、面白さ、楽しさで、飴をしゃぶらせればいいんです。
お爺さんは優しく、そして、お父さんは厳しくいく。
「老壮青(ろうそうせい)」三世代がスクラムを組んで社会を動かす
野村 親はどうしても厳しくなってしまいますが、最後は人間、童の心に戻らないといけませんね。そういう事を孫との出会いの中で発見するんです。
見るほうも、おじいちゃまの世代がここがいいよとか面白いよって、ちょっと見方を教えてくれると、コツが分かって忍耐も楽になりそうですね。
野村 「キッズ伝統芸能体験」では、母と子が一緒に呼吸する効果も大きい。お稽古は子供中心ですが、見守っている親の存在が大切なんです。親と親の前を歩いていた世代との振幅。日本語に対する感性も、親の世代が「悲しい」という言葉しかなくても、お爺さん、お婆さんなら「不憫」「哀れ」というように、言葉の感性が広がるんです。
所作の感性も広がっていきますね。
野村 伝統芸能に限らず、社会は老壮青(ろうそうせい)の3つの世代がスクラムを組んで動いていかないといけないように、芸能も、3つの世代がおりなしていかないと舞台の充実にはつながらないのではないかと思います。
社会の基本ですよね。
野村 そういった事は、もう一度仕組みとして考えられるべきじゃないかな。学校の指導要領の中に、もっと生の芸能に触れながら学ばせる、という事をちゃんと書いてほしい。
邦楽は必修になりましたね。子供の時に邦楽に触れて、日本の音階で歌ったりする事は、すごく大事だと思います。さきほどのお話にあった発声法の練習は、小学生にぜひやってもらいたい。子供たちだけでなく、先生たちの事も指導していただきたいわ(笑)。
野村 子供たちが健康で明るい声を出せる事が本当に大事なんです。
自分たちで実際にやった経験があると、大きくなって同じ舞台を見た時、これは知っているという懐かしさを覚える。子供の時は何だか分からなくても、大人になってからこういうことだったのかと腑に落ちる事がありますね。
野村 そこが今やっている「キッズ伝統芸能体験」の大事なところなんです。7カ月間訓練して、最後には舞台できちんと衣裳を着て、楽器を使って発表する。ここまで体験する事がとても大事なんです。
子ども時代の体験が長じてからの楽しみにつながる
今、能楽堂などへ行くと結構、若い女性が多いですよね。伝統芸能も女性が支えていると思って感慨深かったのですが−−。
野村 世阿弥も「衆人愛敬(しゅうにんあいぎょう)」って言っていますが、芸能はすべからく人々に支持されて、愛されないといけないんです。芸能は、多くの人に支持していただいて、育てていただかないとだめなんです。私は3、4歳で舞台に立ちましたが、そういう体験ができた人間は、その道の責任が重いと思うんです。
稽古が嫌になられた事はないんですか。
野村 嫌になりそうな時が戦争中でしたからね。嫌にならないように調教されてきました。飴と鞭をうまく使われました。親父からはスパルタ式でしごかれて、それをいつも祖母が助けにきてくれました。大家族の有難みはそこにありますね。
最近、小さい子供が老人ホームのお年寄りと交流したりする事がありますが、あれもいい事なんでしょうね。両方が元気になりますから。
野村 私も孫と一緒に出る舞台は、童心をつかんでないと一緒に立てない。そこで新しい発見があるんです。
お爺ちゃまも子供から教えられるという事ですね。
野村 昔は「アクター」として職人的な腕だけを磨けばよかった。伝承を考えると、これからの時代は「ティーチャー」とか、「プロデューサー」的な要素がないと未来につながっていかないのかもしれません。これまでは、本番前までは演者がばらばらでも、しっかり稽古していれば、顔を合わせた時にたちまちひとつの舞台を作り上げることができました。しかしこれからは、伝承していく時に、時代を反映した演出ノートのようなものが、必要かもしれません。記録映像だけでは伝えられないものもありますから。
私は東京の郊外に住んでいて、古典芸能は敷居が高く感じられました。でも、下町育ちの友達はそうじゃなかった。古典芸能をよく知っていたんです。下町の人たちは“伝統芸能”と近いものがある。お爺ちゃん、お婆ちゃんにそういう人が多いからかもしれません。
野村 小さい時に体験した事は、一生忘れないでしょう。時間の余裕ができた時、何も趣味がないと寂しいものです。小さい時に触れたものが何かあれば、普段はできなくても、長じた時、あとで何か芽生えてくる事があるのではないでしょうか。
私の友人で、あと5年くらいで定年という年頃の男性なんですが、最近、小唄を習い始めましたよ。海外に長くいた人で、ネットで先生を見つけたんですって。日本の伝統芸能って、ある程度の年になってから始めても、十分楽しめますよね。
野村 伝統芸能は、子供は華を持っているからモテる。年寄りは華がないかわりに、経験の蓄積で人間の味わいがある。子供から年寄りになるまでの間が長い。その間の辛抱が大事なんです。海外公演でも、息子と親父ばかりがモテる(笑)。老を助け、青を導く、中間の世代は一番大事にしなくてはならないところです。
 芸術に国境はないと言いますが、海外の人は言葉を越えたものをつかんでくださる。日本のお客さんのほうがかえって苦労してしまっているかもしれません。古語で言葉がわからないと引っかかって、すっといかない。外国人のほうが、最初から分からないので言葉の意味に惑わされず、ぱっと本質をつかむ事ができるんです。ベルリンオペラで公演をした時、舞台の解説をしようと思ったら、主催者からここに集まるお客様は、解説なしで分かると言われてしまいました。
「一生懸命掃除をすると舞台が上手くなる」
「キッズ伝統芸能体験」では、約300人の子供たちが、能楽に限らず、箏曲、長唄、日本舞踊、みんなやるんですね。私も小さい時に、こういうのをやらせてもらっていたら、人生変わっていたんじゃないかなとねたましくてなりません(笑)。体で覚えておく事がすごく大事なんですよね。
 大人は忍耐して見ていくと、だんだん分かるようになっていきます。頭で理解できるし、「東京発・伝統WA感動」の公演の中で、演奏や舞台の説明をしていただくと、とてもよく分かって面白い。子供は体で覚えて感じないと、気持ちが動いていかない気がします。
野村 「キッズ伝統芸能体験」の開講式は国立能楽堂でやっているんです。子供たちは、そういう空間に身を置くと、自然と、いい意味で集中するんですよ。
日本人である事を、意識的に体験する、初めての経験かもしれませんね。
野村 今の子供たちは普段から下を向いて、ゲームをしているから、ろくな声が出ないんです。胸を張って、遠くを見て、大きな声を出す、そんなところから人間の健全さ、のびやかな心が生まれてくると思います。座禅も、外から厳しさを与えられる事から、内面が生まれてくる。そういう意味では、芸の心を会得するためには、贅沢な空間が必要なんじゃないかと思うんです。
やっぱり本物に触れて欲しいですね。本物の空間で行われる開講式、素晴らしいと思います。舞台で足を踏みならす、踏み込みの所作を子供にやらせると、ストレス解消になるかもしれませんしね。
野村 稽古をしている時、どうしても気持ちが外へいってしまって、自分の前しか見えないものなんです。目には見えない背中、足の裏とかにもっと神経がいかないと、能舞台の空間を支配する体にはなれない。
 親父が僕に、「一生懸命舞台を磨け。掃除をすると舞台が上手くなる」と言っていたんですが、そんな事あるならいいな、と思っていた。今思うと、それは意味があるんです。一生懸命自分で磨いて、そこに立つと、自然と足の裏に心がいく。そこから頭に意識がいく。それが大切なんです。
私は、日本の伝統芸能、文化の素晴らしさのひとつに、折り目の正しさがあると思うんです。お稽古が始まる時、師匠へのご挨拶の仕方とか、演奏中も、たとえば笛を吹いたあとの所作の美しさ。ああいう「かたち」の素晴らしさには、一本芯が通っている感じがします。
野村 能は600年前のものが、絶える事なくそのまま生き続けて今日の舞台として花開いているんです。これは世界にもまれな事なんです。ギリシャ劇も現代までの歴史の途中で終わっていますね。能が何百年も生き続けて今日に至っている一番の根幹は「型」。基本、約束事があるという事です。そこをしっかりと守っていく事が、伝承の大切な智恵だと思う。
それは絶対、絶やしてはいけませんね。たとえば、着物を着たい人はたくさんいるし、作りたい人もいる。でも着物文化がずっと続いていくためには、着物を着た人を見て、きれいだねと言ってくれる「見巧者(みごうしゃ)」が必要なんです。伝統芸能も、なさる人は一生懸命だけど、見る人を育てていく事も大事。見る人が育たないと、過去の人たちと対話ができなくなると思う。日本人が日本人でなくなる気がするんです。
野村 明治までは、経済人イコール文化人だったんですよ。安土桃山時代は町衆が文化を支えていました。経済人など、世の中を支える人がもっと文化人でないといけないと思います。実際には、残念ながらそうでなくなっているんです。芸術文化が栄えていくにはパトロンのような人が必要。そのような制度もきちんと整えていただきたいですね。
親御さんも大事ですよね。日本人でありつづけよう、日本の文化を大事にしよう、子供に伝えようと思ったら、まず親御さんに興味を持っていただきたい。伝統芸能はずっと見ていけば面白い。時々、思いがけない発見があって、なんて素晴らしいんだと感動してしまいます。私に流れているのはこういう血なんだって事が、よく分かったりするんですね。
野村 教科書に狂言が載った事で、普及度が違ってきました。学校で生徒たちに出会って、いつも思うのは、この子はもう二度と狂言の舞台を見ないかもしれないという事です。そういう子供に、二度と見たくないと思われたくないですよ。また見たいと思って欲しい。一期一会の子供との出会いが、今の自分の舞台を支えているバックボーンになっているんです。子供たちとの出会いは本当に大切です。子供たちが目を輝かして見てくれた事は、本当に忘れられませんね。
日本の中心から伝統芸能を支え、発信しつづける責任
東京から伝統を発信する意味は何でしょうか。
野村 これは当然の事です。東京が、日本を代表する芸能の集積地でもあり発信地でもある。京都や奈良に行かなくても、日本の古い文化に触れられるんです。江戸時代で止まっちゃだめなんです。近代を代表する、文化の窓口としての位置を、都は整備していただきたい。
東京は人口は多いですが、伝統芸能と暮らしとの結びつきが少ないので、ぜひ東京に根を広げて欲しいと思います。
 今の子は退屈させないよう、常に外から刺激を与えられていると思うんです。自分から入りこんでいく事がない。だからこそ、体験する事、自分で音を出す事が大事だと思いますね。
野村 機械でなく、生身の体から何かを生み出す事が、根幹として大切なんです。それを積み重ねていく事で、人間の心に帰着していくんじゃないでしょうか。国が文化政策、教育政策として、きちんと位置づけて欲しいですね。熱心な学校もあるけれど、広く、子供たちが平等に体験できるようになるには、国の政策に位置づけていただかないと、そうはならない。今、文化的なものがどんどん切り捨てられていますから。
英語教育なんか、小さい時からやろうというふうになっているけれど、英語の前に、小さい時、その時は分からなくても、覚えてしまったほうがいい事って沢山ある。今、テレビ番組で万葉集を読んでいるんですけど、これ、小さいころ誰かが教えてくれていたら、今ごろすらすらと口をついて出てきて、千何百年前の昔の人と語り合うことできるのに、と思うんです。伝統芸能の素晴らしさは世代を超えて、同じ言葉で語り合える事だと思います。流行のものというのは、その時代に生きた世代のものでしかないですから。
野村 万葉集ではなかなか大変だから、せめて、「いろはかるた」でもいいと思いますね。ああいう伝承の中に日常の生活の知恵がある。庶民の心は、時がたってもそんなに変わらないものですよ。
人の心は、時代が異なっても、本当に変わらないものだと思います。伝統芸能は、時代を経てある頂点に到達した芸ですから、色々なものが「型」になって、そこへ現代に生きる自分の心も投影することができるんじゃないかしら。
野村 伝統芸能が、今日まで続いてきた事を改めて考えると、何事にもくじけず生き抜いていこうという心が基本にあるのだと思うのです。大震災、戦争など、激動の時代を伝統芸能はずっとくぐりぬけてきた。それを思えば、いまの経済不況なんて大した事ないんです。
伝統芸能の未来は明るいですね。
野村 舞台は、本当に大輪の花を咲かせなければいけないと思います。しかし、その根っこは、雑草のように強い根でなければならないと思うのです。踏みつけられても枯れないだけの雑草の根強さが、見えないところにある。そこから、大輪の花を咲かす事が芸能の心として、とても大切なんじゃないかと思います。「型」は基本なんですけど、それだけ踏襲してやっていればいいのではなく、そこから創造する心を常に失わずにやっていかねばならないと思います。
 普及という事だけを考えていると、芸の高さや深さに至らない。高さや深さを追求してばかりいると、世界が狭くなってしまう。両方のバランスが大事なんです。普及は若い人に頑張ってほしい。そして、伝統芸能の環境に、芸の広さ、高さの両方を追求できる仕組みが必要です。稽古場の減少、後継者の問題など、伝統芸能のどの分野でも悩みは尽きません。私たちが受け継いできたものを絶やさず、創造性を持って未来につなげていくためにも、東京から継続的に発信していく力を作り上げていっていただきたい。東京は日本の首都として、そういう責任があると思います。